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2018年2月18日

歴史へGO13 スタッフブログ 深山昇太

深山昇太

弊社HPをご覧頂きましてありがとうございます。

札幌宅商㈱賃貸事業部賃貸3課 深山(みやま)と申します。

大変恐縮ですが再び歴史のお話しをさせて頂ければと思います。

歴史にはロマンがあります。

今回の人物は

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西郷隆盛 

現在NHK大河ドラマ[西郷どん]で放送されてますね。

簡単ですが西郷隆盛の人生を振り返りたいと思います。

1828年1月23日(文政10年12月7日)、鹿児島城下、現在の鹿児島市加治屋町に下級藩士の長男として生まれる。少年時代に喧嘩の仲裁に入り、右腕の神経を刀で切られる。その怪我で刀が握れなくなり、学問で身を立てることを志す。

1854年、西郷が26歳のときに薩摩藩主、島津斉彬の御庭方役となり、島津斉彬から直接教えを受ける。

1856年、第13代将軍・徳川家定と島津斉彬の養女・篤姫が結婚。島津斉彬の考えは、篤姫を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかり、露英仏などに対処しようとするもので、日中韓同盟をも視野にいれた壮大な計画であった。西郷隆盛はその手足となって活動。

1858年、西郷が30歳のときに島津斉彬が急逝。島津斉彬の弟、島津久光の子・忠義が家督相続し、島津久光が後見人となる。西郷隆盛は、殉死しようとするも僧・月照らに説得されて、島津斉彬の遺志を継ぐことを決意。

1866年、西郷が38歳のときに坂本龍馬の斡旋により、長州藩士、桂小五郎(木戸孝允)と薩長提携六ヶ条の密約を交わす(薩長同盟)。

1867年、徳川慶喜は大政奉還を建白。しかし、1868年に鳥羽・伏見にて旧幕府軍と薩摩藩との間で戦端が開かれ、戊辰戦争へと拡大。西郷隆盛は東海道先鋒軍の司令官に任じられると、箱根を占領。その後、江戸総攻撃の命令を受けて江戸に入る。

江戸城総攻撃の直前に山岡鉄舟、勝海舟と会談、徳川処分案を預かると総攻撃中止を命令し、無血開城が行われる。

その後、薩摩へ帰郷したが、1871年(明治4年)、43歳の西郷は参議として新政府に復職。陸軍大将などを兼務。

朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、大久保利通らと対立。再び鹿児島に戻り、私学校での教育に専念する。

1877年(明治10年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃。1877年9月24日、西郷隆盛は49年の生涯を閉じた。

そんな西郷の辞世の句が [二つなき 道にこの身を 捨て小舟
波立たばとて 風吹かばとて]

二つとない大切な命であるが、国のために自分を捨てて、
波が立とうが、風が吹こうが、乗る人もなく打ち捨てられた
この小舟に乗ってとにかく進んで行かねばなるまい。

といった内容のようです。

政府を作り、政府に破られた思いはどんなものだったのでしょうか・・・

日本の歴史を語るには欠かすことの出来ない人物です。 長くなりまして大変失礼致しました。

 

今後も札幌宅商をよろしくお願いいたします。

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